八丈島にやってきました。
今回、八丈島に来た目的は、ハイキングです。
「八丈富士」の噴火口のふちを歩いていた様子はこちら。
八丈富士を歩いた日の夜から雨がしとしと降り始めました。
次の日は、朝から結構な雨でした。
2日間は暴風雨のため、アウトドアが楽しめなかったので、「八丈島歴史民俗資料館」や「八丈ビジターセンター」で、島の歴史や自然を一気に学ぶことにしました。
暴風雨のため、底土野営場から民宿「やしま荘」へ避難
雨がテントをうつ音で目覚めます。
テントの入り口を開けると、結構な雨が降っていて風も強いです。
トイレに行きたかったので、レインウェアを着て外へ。
外は雨風が強いですが、一旦テントに入ってしまえば快適です。
さすが、モンベルの「ステラリッジ」。しっかり守ってくれます。
天気予報を見ると、「暴風雨」と書いています。
しかも2日間ずっとです。
2日間か…長いな。
ここから雨風がますます強くなるみたいだし…。
テント自体が飛ばされることはなさそうだけど、2日間テント内にいるのは正直つらい。
ダメ元で観光協会に電話して、空いている宿がないか聞いてみることにしました。
「ちょっと調べてみます。お待ちください。」
期待せずに、待ってみることにします。
お昼くらいにもう一度トイレへ。
テントに戻ってきて、扉をしめようとしたら、フライシートの内側に小さな張り紙が。
「青ヶ島で水をいただいた3人です。
明日から嵐らしいので、よかったら宿にどうぞ。
大きい部屋なので余裕があります。」
どゆこと?
青ヶ島行ったことないよ?
一応、間違っていることを伝えるために電話してみます。
「あの張り紙が貼ってあったんですけど、多分間違ってます。」
「ですよね!」
ですよね?どゆこと?
「嵐大丈夫ですか?」
「(部屋空いてますかと聞きたい気持ちをぐっと抑えて)だ、大丈夫です。」
しばらくすると、観光協会から折り返しの電話が。
「観光協会です。宿が見つかりました。」
やったー!やったぜ!
この嵐から抜け出せます。
さがしてくださったのは、民宿「やしま荘」。
やしま荘 | 八丈島観光協会
12時なのに、部屋へ入れてくださいました。
このやしま荘のオーナーの方々、本当にとっても親切でした。
食堂でお茶を出してくださって、おしゃべり。
それから部屋へ戻って爆睡。
16時くらいからお風呂に入って、18時くらいにご飯を用意してくださいました。
とんかつがめっちゃおいしくて、お腹いっぱい食べました。
この日は、2019年04月30日。
そう、平成最後の日です。
テレビではずっとその特集をやっていました。
一応、平成から令和に変わる瞬間まで起きていて、そこから寝ました。
後日知り合った人に聞くと、私が底土野営場を去った後に警察が来て、キャンプしている皆さんを役所に避難させたとのことです。
早めに撤退して正解でした。
5月1日。
この日も朝からずっと雨。
今日どうするかな~?と思いながら起床し、朝ごはんへ。
10時に一応部屋を片付けて、近くのコインランドリーへ行くために、やしま荘に荷物を置かせてもらいます。
コインランドリーは激混み。
結局2時間くらいかかって、やしま荘へ戻ります。
「すごい雨だねえ。洗濯物濡れなかった?八丈島は雨降る日が意外と多いんだよね。
これからどうするの?」
「とりあえず、次に宿に荷物置いて、歴史民俗資料館に行こうと思います。」
「じゃあ、歴史民俗資料館まで送ってあげるよ。」
お言葉に甘えて、送っていただきました。
やしま荘の方々には、本当に親切にしていただきました。
お礼を言ってお別れです。
「八丈島歴史民俗資料館」
最初にやってきたのは、「八丈島歴史民俗資料館」。
八丈島歴史民俗資料館【常設展示情報】 | 八丈島観光協会
最近、八丈支庁展示ホール内に移転したとのことです。
八丈島について学んだのは次の通りです。
- 八丈島に伝わる伝統的な絹織物・黄八丈(きはちじょう)は、年貢として納められていた。
- 黄八丈の生産者である女性の地位は高く、一家の主権は女性が握っていた。
- 八丈島は、「流人の島」としての歴史が長く、物心両面の負担が大きかった。
- 明治以降は、牧畜、養蚕、漁業が盛んで、現在は花き園芸が注目されている。
- かつては「島も通わぬ島」とも言われたが、その後、南国情緒の観光地として「東洋のハワイ」と呼ばれるようになった。
- 黒潮の真中に位置する八丈島には、習俗・建築などに南方的な文化要素が色濃く残っている。
- 高床式倉庫は、奄美・沖縄を中心とした西南日本、ひいて東南アジア地域の建築様式と類似している。
- 八丈語(八丈方言)では、万葉集の東国方言(当時の関東地方とその周辺)と同じ用法がそのまま使われている。
- ユネスコの調査結果で、八丈語(八丈方言)は「子供は家庭においてその言語を学ぶことがない」という危険のランクに位置づけられた。話者は500人~1000人程度とみられている。
- 八丈島でクサヤ加工が本格的に始まったのは大正年代で、今では島を代表する伝統的な水産加工品。
- 島酒というのは、八丈焼酎のこと。島では昔からドブロクが造られていたが、穀類をつぶして食糧事情を悪化させることから、醸造が禁止されていた。ところが、1853年に八丈島に流された丹宗庄右衛門が、穀物をつぶさず、サツマイモから造る焼酎の製法を伝え、これが島酒となった。
- 八丈島に送られた流人は、1606年の宇喜多秀家主従が最初で、1871年までの約265年間に1900人もいた。
- 博打や喧嘩で流された者も多い。また政争や権力争いで流された者もいた。また、病気の馬を捨てたり、吹き矢でツバメを射るのを見ていたりという理由(生類憐みの令)で流された者も。
- 八丈島は飢饉の島だったため、流人による騒動や犯罪が起きることもあった。一方で、産業や学問、文化の面で島に大きく貢献した人々も多い。
奉公所での遠島の言い渡し
流人船の船出
佐原喜三郎と花鳥の脱島
佐原喜三郎という男と花鳥という女は、八丈島に流されたが、島から脱出し本州にたどり着いたという珍しい事件。脱島した二人だったが、その後捕らえられている。
昔は豪華なホテルがいくつもあったみたいですが、海外旅行が気軽に行けるようになり、2000年以降閉業になっています。
「八丈ビジターセンター」
続いてやってきたのが、八丈ビジターセンター。
八丈ビジターセンターは植物公園内にあり、八丈島の自然や文化を紹介しています。
八丈ビジターセンター
このように、パネルや展示物がたくさん展示してあって、八丈島の自然や文化を詳しく学ぶことができます。
八丈ビジターセンターで学んだことを抜粋してみます。
- 八丈島の植物のルーツは、大きく3つに分けられる。1つは、大陸からのルート。2つ目は風ルート。シダの胞子やランの種は小さく軽いため、簡単に風と飛ばされ運ばれてくる。3つ目は黒潮に乗ってやってくるルート。
- 八丈島ではウミガメが昔から食用にされ、現在でもアオウミガメを煮込み料理などで食べている。
- アシタバは昔から貴重な食料。夕方に葉をつんでも、明日には新しい葉が出ることから「アシタバ」と呼ばれる。
- 気候の温暖な八丈島には、昔から桑の木が自生していたことと、蚕の病気がなかったことから養蚕が盛んとなり、黄八丈が発展した。黄八丈は江戸時代に年貢として納められ、島民の生活を支えた。「八丈の長さの反物を産する島」から八丈島と名付けられたとも言われている。
- 八丈島は自然災害や飢饉によって、年に数百人の死者を出すこともあった。きびしい自然環境から生まれた民話は笑い話が少なく、暗い話が多くみられる。50歳になると穴に捨てられた「人捨ヤア」や、食料のトコラを粗末にして天罰で死んだ「トコラ」など。
- 八丈島の気候は、暖流の黒潮の影響を強く受け、温暖な海洋性気候。冬暖かく雪が降ることはめったにない。雨が多く、快晴日数は年間を通して9日間程度で、東京の約5分の1。
2日間、暴風雨に見舞われて大変でしたが、旅にトラブルはつきものですね。
一方で、観光協会や民宿の人のやさしさに触れることができたし、八丈島の自然や文化についても沢山学べたので、これはこれでよかったかも。
翌日は、ようやく晴れたので、三原山に登ることにしました。