今回やってきたのは、長崎県平戸市の生月島(いきつきしま)と平戸島(ひらどしま)。
1日目は、生月島へ。
CMロケ地として知られるサンセットウェイを抜け、生月島自然歩道のハイキングを楽しみました。
そして、2日目に訪れたのが平戸島。
2018年7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたのですが、その構成資産にもなっている「春日集落(かすがしゅうらく)」と「安満岳(やすまんだけ)」を訪れてみることにしました。
春日集落の棚田
平戸には、1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、この春日集落にも広まりました。
その後、キリスト教の弾圧が始まり、人々は潜伏し、ひそかに信仰を伝えるようになります。この禁教期にキリスト教の信仰を続けていた人々のことを「潜伏キリシタン」と呼んでします。
ここ平戸には、「潜伏キリシタン」にまつわる資産が多く残っています。
その後、明治政府がキリスト教の禁教を解除するのですが、解除された後もかくれて信仰を守った人々がおり、彼らを「かくれキリシタン」と呼んでいるそうです。
下のサイトで、このあたりの話がよくまとまっています。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
まずは、春日集落案内所「かたりな」に立ち寄ります。
春日集落案内所は、古民家を改装してつくられたもので、案内所、売店、資料コーナーなどがあります。
訪れてみると、地元の方が語り部として春日集落の歴史を教えてくださいました。
- 明治時代にキリスト教の禁教が解除されて、元のカトリックに戻った人もいるが、そのままかくれて信仰を続けた人もいた。
- 潜伏キリシタンの時代に、カモフラージュとして仏教や神道を信仰し始めたが、それらも次第に信仰の対象となり、禁教が解除された後に元のカトリックに戻るのが難しかった。
- 現在、平戸にかくれキリシタンはほとんどいない。隣の生月島にはまだ300名ほどいる。
春日集落案内所で自転車を借りて、春日集落をまわります。
電動自転車なので、坂もらくらく上れます。
振り返ると、海が少しだけ見えました。
中心の高い山は、安満岳。
潜伏キリシタンが信仰した聖なる山です。
丸尾山の頂上です。
この山ではキリシタンの墓地遺構と考えられる複数の穴が発掘されています。
かつて、この場所に十字架が建てられていたといわれています。
ここからは、春日集落の棚田がきれいに見渡せます。
棚田がきれいに保たれていています。
「馬洗い川」
春日集落の周辺は、平戸藩が管理する広大な馬牧で、昭和40年代までは広範囲が草地として管理されていたそうです。
川の奥の小さな窪地で、江戸時代に馬を洗っていました。
安満岳に続く道。
主な移動手段が徒歩だった時代は、このような小さな道がたくさんありました。
次は安満岳に登ります。
安満岳登山
平戸島で最も高い安満岳(標高534m)。
安満岳は、様々な宗教の信仰の対象となった山です。
8世紀に頂上へ白山比賣神社が建立され、その後、修行僧の修験場となりました。
16世紀半ばになると、キリスト教が広く伝わる一方で、西禅寺を中心とした山岳仏教の勢力が伸び、宣教師らと敵対するようになります。
潜伏キリシタンの聖なる山でありながら、今もなお山岳信仰が続いています。
宗教の歴史が多く残っているこの山に登ってみることにします。
安満岳登山の概要
<とき>2018年11月24日
<天気>晴れ
<距離>2.3km
<行程>
11:40 登山口
12:00 鳥居
12:10 白山比賣神社(はくさんひめじんじゃ)
12:12 山頂展望
12:15 キリシタン祠
12:40 登山口
登山口
登山口には広い駐車場があり、トイレも数個設置されています。
鳥居
鳥居をくぐります。
石畳の道がずっと続きます。
この区間は「裸足参り」と呼ばれていて、昔は草履を脱いで裸足でお参りしていたそうです。
白山比賣神社(はくさんひめじんじゃ)
8世紀に建立された神社で、修行僧の修験場となりました。
山頂展望
白山比賣神社を抜けるとすぐに頂上です。
右に見える島が生月島です。
青い色の生月大橋も見えます。
中央辺りに見えているのが、先ほど訪れた春日集落の棚田です。
本当にいい景色です。
キリシタン祠
山頂から細い道があって、その奥にはキリシタン祠があります。
現在でも、平戸のかくれキリシタンの方々は安満岳に登り、この祠を参拝しているのだそうです。
「安満岳山頂の石造物の中には、春日集落の潜伏キリシタンが「キリシタン祠」と呼んでいた石祠があります。潜伏キリシタンは、キリシタン信仰に併せて、神道や仏教を信仰しており、安満岳はその信仰の形態をよく表しているといえます。」
「平戸の聖地と集落ガイドマップ」より
平戸市 文化観光商工部 文化交流課
キリスト教らしいものは見当たりません。
そのようなものは隠して分からないようにしていたのでしょう。
ぱっと見ただけでは、ただの祠のようにしか見えません。
登山口
同じ道を帰り、登山口に戻ってきました。
銀寿し(ぎんずし)
安満岳に登ったらお腹が空いたので、お寿司屋さん「銀寿し(ぎんずし)」へ行きました。
銀ずし(平戸/寿司) - Retty
お寿司を頼みます。
大将と話しながら食べます。
安満岳に登ったことを話すと、結構遠くから来て登る人多いよと教えてくれました。
平戸島の南にある志々伎山という山に登る人も多いんだとか。
カトリック紐差(ひもさ)教会
紐差(ひもさ)地区にある「カトリック紐差教会」を訪れました。
明治時代にキリスト教の禁教が解除されたわけですが、解除された直後は、カトリック信徒、カクレキリシタン、仏教徒が混在する時期があったそうです。
1885年に、この教会が建ったとき迫害がおきなかったことでカトリックになるカクレキリシタンも増え、仏教徒の集団改宗もあったとのこと。
今回の旅では、何か所か教会に立ち寄りましたが、この教会は外観も内装も本当にきれいでした。
切支丹資料館
切支丹資料館へ行きました。
平戸市切支丹資料館公式サイト|かくれキリシタンの里・根獅子ヶ浜
ここには潜伏キリシタンにまつわる資料が数多く展示されています。
平戸藩がキリシタンを見つけ出すために使用した「踏み絵」です。
金属製だけでなく、紙のものもありました。
殉教者の人々の名前や年齢、殉教ときの様子なども書かれていて胸がつまります。
「信じたいものを信じる」という当たり前の自由がなかった時代です。
平戸藩は1645年キリシタン取り締まりのために、藩臣の牧山家をこの根獅子に監視役としておきました。
一方、根獅子のキリシタン信徒の総元締め役は、辻家が担っていました。
牧山家の家は監視のために、辻家の家を見下ろせる場所にありました。
驚いたことに、この配置は現在まで続いているそうです。
「おらしょ」
ラテン語のオラシオ(祈祷文)に由来する言葉です。
おらしょは口伝で伝えられたものですが、これはなぜか文字で残されています。
大正時代に伝えられたと説明があったので、禁教が解除された後に文字で書き起こしたのかもしれません。
「ロザリオ」
「キリシタン武者像」
信者が持っていたとされるご神体ですが、第三者を介して入手したもので信仰の対象としていたかどうかの証拠がないため、参考品とされています。
厨子の扉に十字が描かれており、目にみえるかたちでの信仰の象徴は違和感を覚える、と説明されています。
「オテンペシャ」
本来はキリシタンの苦行の鞭として用いていましたが、現在では元の意味が忘れられ、神道のお払いの道具のように使われています。
「カセカケ・ワク」
糸つむぎの道具です。
開いて上からみると十字に見えるため、信仰の対象とされました。
信者が亡くなったときに、そばに置かれたそうで、昭和50年代まで続きました。
切支丹資料館の前に広がっている「根獅子ヶ浜(ねしこがはま)」。
根獅子の信者多数が殉教した浜です。
この浜には悲しい話が残っています。
禁教時代にこの地区に父母と三姉妹が住んでいて、家族は潜伏キリシタンでした。
その家族の前に一人の男が現れるのですが、働きぶりが認められ、やがて長女と結婚します。
長女が身ごもったとき、家族はキリシタンであることを男に打ち明けました。
男はその事実を通報し、一家は捕らえられ身ごもった子どもも含め6人がこの浜で殉教するのです。
こんなにきれいな浜で、そんな悲しいことが起こっていたとは。
この後は「川内峠」や「平戸オランダ商館」へ行きます。
続きは次の記事で。